スピリチュアルなことに興味を持たれる方は概して、ピュアだったり、真面目だったり、ご自分への評価が厳しい方も多いように思います。
その中でも
(精神的に)きれいな自分でありたい
とか、
エゴのない人間でありたい
とか、
自分を変えたい
という想いを持っている方は、向上心があったり、理想が高い方だったりします。
それはそれでとても素晴らしいことであると思います。
同時に。
そこには、コインの表と裏のように
今の自分の心はうつくしくない
とか
今の自分はエゴがあって、よくない
とか
自分は足りない、十分ではない
という考えを持っている方も多いです。
だからこそ、きれいな心やエネルギーでありたい、エゴを無くしたいという感じではないかと思うのですが。
しかし。
それを突き詰めて考えると、現在の自分を肯定できなかったり、自分自身を認められない、愛せないことの裏返しであることもよくあります。
でも、エゴとはなんでしょうか?
エゴ、という言葉を聞くと、我、や、自分自身の我が儘的な、何か嫌なイメージを持たれる方も多いのではないでしょうか。
かなり以前の話になりますが。
私が付き合っていた人で、前世では夫だった人は快楽主義者で自由奔放な人だったのですが、私は振り回されていて、それは自分勝手なレベルのように私には思えました。
それで、会話の中で、
『あなたって、エゴイストよね』
と、言ったところ。
『いや、違う。
自分はエゴチェントイスト(自己中心主義)なんだ』
と返されました。
この意味の違いを何となく判るでしょうか。
本人がいう所によると。
エゴイストは自分勝手で自分のことしか考えない感じですが、エゴチェントイストは自分というものが中心であって、自分のために生きている、というようなニュアンスのようでした。
エゴイストは自分自身の都合で、周囲を傷つけたり、迷惑をかけても一切気にしない。
エゴチェントイストは、まず自分がある。
自分の意志を中心に、自分自身が満足すること、充実することを優先する。
その過程で、周囲の人間のことも考えるが、行動するときに自分が望まないことはしないし、自分軸から外れない生き方をする。
自分を優先的に考えて行動する、そんな感じらしいです。
エゴという言葉を考えると、そんな会話を思い出したのですが…。
ここでは、エゴという言葉にどんな定義・イメージを持つか、という部分が関わっているとも思うのです。
エゴの言葉の定義というのは、実は個人個人によって微妙に異なっている可能性があります。
ちなみに広辞苑でのエゴの意味は
①自我。我。
②エゴイスティック・エゴイズムの略。
なのですが、②の意味がネガティブなニュアンスを持ってしまう原因のように思います。
けれども。
エゴというのがなぜ生まれたのか、どうやってそれが形成されて、どんな働きを持って、保持されてきたのかという部分を考える必要もあるのではないかと思うのです。
エゴは、人が生き残るために、その体を維持、防衛、生き抜き、生存競争の中で優位に立つために、生まれた生物的な反応、行動・思考パターンではないでしょうか。
なので、私はエゴというのは、避けるべき、不必要なものではなく、ある部分では、肉体を持って生きる人間である以上、普通に社会人として生きてゆく上で必要不可欠なものであると考えています。
理想論的に言えば、私たちが肉体のない存在だったり、出家した人間であれば、全くエゴがない状態であることは理想かもしれません。
しかし、一般的な生活を送る普通の人の場合、社会生活を送るうえで、エゴなしでは生きるのがかなり厳しくなるのでは。
そして、そのエゴ=欲というものは、その程度の差によって、名前を変えたり、受ける印象が変わります。
例えば。
名誉欲のようなものを見たとします。
名誉欲の始まりは、誰かに肯定されたいとか、認められたいという、自分を受け入れてもらいたいという承認欲求から生まれます。
子供が生まれてから生きてゆくためには、育ててくれている母親や家族に存在を認められている必要があります。
自然の働きとして、子供が、無条件に母親に受け入れてもらいたい、認めてもらいたいと感じることはごくごく自然のことです。
それをとがめる人は誰もいないと思います。
そして、子供がよい成績を親に褒められるのを求めて、勉強に励むことは、向学心があるとして、周囲から良い評価を得ます。
でも、周囲から認められることを追求するあまり、手段を選らばなくなって、カンニングをするとか、他人を欺いて蹴落とそうとするならば、エゴが肥大したネガティブな状態と言えるでしょう。
誰かに認められたい、受け入れてもらいたいという願望は誰でも持っているのではないかと思います。
認められる、評価されるために、一生懸命努力することは、その人の原動力になり、何かを生み出す力になります。
しかし、一方で、それが肥大して、決まりを破ったり、誰かを陥れるならば、それは良くない方向に向いているといえるわけです。
自分のエゴを知った上で、それをコントロールし、ほどよく使いこなすことが人として生きる上では必要なわけです。
私自身の経験になりますが。
若かりし頃に、アンティノウスの一件で、精神的に追い詰められた時期に、私は、自分自身は、きれいな心でなくてはならない、という強迫観念にも囚われました。
何故なら。
ワンネスの感覚になった時に、高次の状態は非常に心地よく、幸せで、美しく、調和のとれた世界だったのですが、同時に、別の方向に意識を向けると、そこには、争いに溢れ、悲しみや怒りや絶望や苦しみに溢れた世界があったのです。
ワンネスの意識では、すべてはつながっています。
私=世界、です。
だから、天国のような世界も私。
でも、同時に地獄のような世界も私。
地獄のようなものを生み出しているのは私の思考。
そう考えると。
すべての悪や、悲しみ、苦しみ、怒り、そんな不協和音の世界は私の想いが作り出している世界なので、私は美しい心でなくてはいけない。
それを感じたくなければ、一瞬でも、悪いことを考えてはいけない、ネガティブな思考を持ってはいけない、ということを思ったのです。
私の想い、考えがこの世界に影響を与えるので、一つでも悪いことを私が考えれば、それがこの世界の汚点の一つになる。
そんな感覚です。
しかし。
その世界は、一言で言えば、地獄でした。
私は天使ではありませんから。
何か嫌なことがあれば、嫌だと思いますし、何かに怒ったりもします。
それは、自由意志を持つ人の心であれば当たり前の心の動きなのです。
それを排除する事は、非人間的な苦痛、自分に対する大きな罪の意識を生み出します。
今だから思うのですが。
美しい心である、ということは、自分の中のネガティブをすべて否定する事であり、自分自身の内面を否定することでもあります。
この世には光があれば闇もあります。
善、というものがあれば、悪、も存在するのです。
ただ善であるという状態は、自由意思の存在である以上、人間には、出来ないのではないかと私は思っています。
そして、一人一人の善という概念すら、時代や国や思想が変われば、変わってしまう、不変なものではないものだったりします。
とするならば、善を追求する事こそ、最もエゴがある状態、ジャッジしている状態、つまり、二元性を持つこと自体に他ならないのです。
美しい心であることに私も惹かれます。
でも。
自分の中の小さいエゴを認めることも自分の中の弱い自分、愚かな自分、ダメな自分、そんな部分を認める寛大な心なのではないかと思うのです。
だから、エゴ、と聞くと消してしまわなくてはいけないもの、悪いものと考える人を前にすると、つい、言ってしまいそうになるのです。
『そんなにエゴを嫌わないでよ。今までこの社会の中で生きぬくために働いてきたんだから』
と。
それから。
私は程よくエゴのある人間が好きです。
それが個性だと思うから。
あまりエゴが強すぎる人間は苦手ですけど
私がもし、セッションを受ける場合。
今までの人生で何も間違いなく生きてきた聖人君子のような方と、悪いことも経験したうえで達観したような方とどちらを選ぶかというと、私は悪いことも経験してきた方を選びます。
なぜなら、何も間違いがないと言い切る人間というのは私は信頼できないですし、その人に私の苦しみや悲しみが理解できると思わないからです。
私自身にもエゴがあり、多少は悪いこともしてきたと思います。
だから、それを理解したうえで同じ視点に立って話が出来る人の方が心を開いて話すことができると思うから。
あまりにも美しすぎる水の中に魚は生きられません。
そして、泥の中から蓮が咲くようなこともあります。
それこそが人間の不思議なんだと、私は思うのです。
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