何となく、スピリチュアルというと、特別なことをしている感覚がある人は多いかもしれないのですが。
私は別に特別なこと、だとは思っていません。
何かの講演会や、ワークやセミナーに行って、スピリチュアルな知識を得たり、瞑想で特別な体験をしたらスピリチュアル
何かのヒーリングの伝授を受けたり、学んだら、スピリチュアル
何かのメソッドを学び、サイキックな能力が目覚めたらスピリチュアル
チャネリング等が出来るようになり、高次な存在と繋がったり、自分や他人ののハイヤーセルフや自分のガイドと繋がればスピリチュアル
宇宙人や、UFOとコンタクトをとったり、見るとスピリチュアル
過去世を読むこと、体験するとスピリチュアル
誰かからセッションを受けたらスピリチュアル
というわけではないと思っています。
上にあげたのは単に自分の能力の一部を開発したり、知識を増やしただけなのではないでしょうか。
だけれど、多くの人の意識の中では
サイキックな能力に目覚めて何かができるようになることだとか
スピリチュアルっぽい活動をしているのがスピリチュアルと感じがちな傾向があるような。
でも、私の中では、そもそもスピリチュアルという言葉が微妙だと思っています。
私の中の認識では
スピリチュアルを知りたいとか、実践したいというのの本質、目的は。
いかに日々の悲しみや苦しみや怒りや不安などの心を悩ませる感情に振り回されず
いかに今の人生を充実させ、満足感、幸福感を持ちながら生きるか
そして、他人との関係でよりよい人間関係を築きながら生きてゆくか
という部分なのではないでしょうか。
しかし、時として、この部分が置いてゆかれた状態で、この部分を作り出してゆく(目的)はずの手段が目的になってしまっている
本末転倒のケースが大きいのかなという風に思います。
霊的な成長に伴って、サイキックな能力が開花することはありますが
サイキックな能力が開花すると、他の人ができない能力を持つことで
人から注目されたり、その能力で優れていると評価されることもあるので
何か万能感だったり、特別感を感じてしまったりして
サイキックな力こそがスピリチュアルであるかのような錯覚を感じてしまう傾向はあるかもしれません
でも、実際には。
霊的に成長するということは、自分自身の内面を見つめ、エゴ、欲を知ること、内省することなしにはないのではないでしょうか。
それは、時として、嫌な自分の一面を知り、見つめることだったりします。
その作業は、華やかなサイキックのイメージとは異なり、地道で、地味な作業であったりします。
私自身のスピリチュアルな学びは、スピリチュアルジャンルの本を読んだり、スピリチュアルリーダーの話を聞いて得たものでは、実はありません。
確かに、メソッド的な部分やちょっとした知識はそこから得ている部分は大きいですし、影響を受けた本や人は当然存在しています。
でも。
今の私を作っているベースは、現実の生活の中、人との付き合いから学んだものだったり。
そして、若い頃に本を大量に読んだことが背景にあると感じています。
高校時代から、25くらいまでの間は、かなり本を読みました。
乱読、という状態だったと思います。
世界史の教科書に名前の挙がった本、名前の知れた著者の本はほとんどすべて読まないと気が済みませんでした。
好きなジャンルの本は、絶版本も、歩き回ってさがしたり、図書館に問い合わせて読みました。
一日、ベットに横になって、食事もとらないで本を3~4冊読んだこともありました。
当時、私が購入した本は2000冊くらいになります。
(大体、毎週、神田の古本屋街をまわり、買っていました
古本屋さんの表に並べられている100円の本の山の中から、宝探しのように本を探すのが趣味でした)
古い時代から今にまで残る本には、それだけの人間のドラマや、知恵がちりばめられています。
スピリチュアルな本を読まなくても、本を読むことはそうしたことを吸収してゆくことになるのです。
昔の時代の人は、そうして本を読んだり。
自分の家族や、近所の年長の人たちの言葉を聞いて、学ぶことが多かったのではないでしょうか。
でも。
今の人は、名著と言われる本を読まなかったり。
人間関係が希薄で、年寄りと話をする機会もあまりないのかもしれない。
その中で、生きる指針がわからない時に、スピリチュアルなるジャンルに足を踏み込んでしまうから
スピリチュアルリーダー自身の人となり、その考え方を客観的に見極めることができないのかもしれないと思う
言葉の中の真偽を見極めることが難しかったり
その思想の矛盾に気が付かなかったり
古典の本に同じような思想が書いてあったとしても、本にボリュームがあったり、小難しくてとっつきにくいけれど
それを、平易な文章でわかりやすく、上手に新しいものに書き換えられていたり
誰かスピリチュアルリーダーに話を聞きに行けば、これもまた、わかりやすい言葉で簡易に語られるけれど
先人の知恵をうまく言い換えているだけだったりもする
そもそも、その人のハートからの言葉で語る人がどれだけいるのか?
私は何かのメソッド、技術的なことを抜きにすれば
何かの講演、セミナーに行って、感動することはほとんどないのです
生意気かもしれないけれど、その程度で感動したり、驚いたり、感心したりするのか、と思ってしまうこともあって
ほとんどの場合、それはすでに知っていたことであることが多いからです
でも。
今まで、本をほとんど読んできていない人にはそれを知ることはありません。
ただで、図書館で借りられる本がほとんどなのに、もったいないことです。
そこには、疑問に思うとか、自分の思考を働かす余地はなくて
受け身な姿勢というのもあるのかもしれないけれど
それが、商業的な、スピリチュアルビジネスのフィールドになっているわけです
私は決して、そうしたビジネスを否定するわけではありません
自分で労力と時間を費やすよりも
お金を払って、労力と時間を節約して
すぐにそれを手に入れる、そして別のことに時間を使うというのもありだと思うからです。
また、私自身も、セッションをしてお金を頂いておりますので、それを否定すると自分で自分の首を絞めることになりますから。
ただ、スピリチュアルなことを学ぼうとする方には、別にそれは特別なことではなくて
本当はとても身近なところにあったような
当たり前のことなのだと言いたいのです
多分、それは私たちが日常的に生きているところに存在していて
息をするのと同じように接してきたものの中にもあるのかもしれないし
人間が何千年も、守り、保持してきた言い伝えや、物語、本など。
それはそれの中に人類の英知があって、それだけの価値が秘められているのだ、と私は思っています。
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